ドッペルゲンガーは死の象徴ではなく、まだ生きたいという願望の投影

生きたい願望
大学生になり、僕は実家を離れて下宿しながら大学へ通っていた。
人一倍オカルト好きであり、さらに人一倍怖がりでもあった僕は、一人暮らしの生活に多少なりの希望と不安を抱いていた。
……のだが、心霊現象などというイベントはそうそう起きず、大学生活を満喫していた。
事件は、大学生活二年目の秋に起こった。
その日、癌で療養中だった父の危篤の報を受けた僕は、着の身着のまま、新幹線へ駆け込んだ。
実家まで最短でも5時間という距離だったので、最後の期に間に合うかどうか。
とにもかくにも、急行せざるを得ない状況であった。
そのとき、新幹線の中では、窓際の席に座っていたのだが、いつの間にか隣に人が座っていることに気がついた。
次は終点であるし、どの駅で乗ってきたのかも分からない。
僕は多少不審に思いつつも、終点のアナウンスが聞こえたので降りる準備をしてから、出口側の人の列に並んだ。
背後から、ちらとその人物のほうを見てみたのだが、まだ立つ気配はない。
出口のドアが開くと、人の流れが動き始めた。もう一度振り返ってみるが、その人物はまだ動こうとしない。
僕はそのまま車両から降り、改札出口へ向かう途中、その人物が気になり、ホームから自分の座っていた席をもう一度確認してみた。
まだいる。前方を見つめてじっと動かない。
しかし、そこにいた人物には見覚えがあった。
何故、後姿だけでも気がつかなかったのか。
その人物は、父だった。
そういえば、僕が所属しているオカルト同好会でこんな話題があった。
『ドッペルゲンガーについてだが、本人のそれを見た者は死ぬと言われている。
が、実はそうではない。
本人が、ドッペルゲンガーを認知しようとしまいとそれは関係なく、ドッペルゲンガー現象が発生したとき、その人は死ぬことが運命付けられている。
なぜならドッペルゲンガー自体が、その人の深層で意識している死、まぁつまり人間の自覚しない危機察知能力によって知覚された死、から分身を造り出しているからだ。
つまり、まだ生きたいという願望をそこに投影するわけだ。』
病院に着くと、父は僕の到着を待っていたかのように、その五分後息を引き取った。
危なくなると、何度も母親が声をかけたそうな。
僕が来るまで待つように、と。
その後、葬儀の前日だったか。僕は父の声を聞いた。
とても不鮮明で、口に綿をつめながら発音したような声だった。
なんと言っていたのか、はっきりと聞き取れなかったことを今でも悔やんでいる。
書きながら気がついたので、誰も聞いちゃいませんが、蛇足ながら勝手に補足。
綿をつめたような発音と表現したけど、事実そうだったのかもしれない。
遺体を保存させるために、口や鼻に綿をつめると思う。
聞き取れなかったのは、そのせいだったのかもしれない。
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