プロ野球にまつわる怖い話と悲しい話

プロ野球の怖い話wwwwwwwwwww
25個ぐらい書いたけど今見返したら半分以上悲しい話やわ
まず一つ
こういうスレでは大体挙がるけど
藤本和宏
元西鉄、広島の投手。
1967年にドラフト外で西鉄に入団。通算0勝のまま1969年シーズン後に自由契約となり広島に移籍した。
カープ2年目の1971年6月にプロ初勝利、初完封を挙げ8月にはノーヒットノーランまで達成するなど10勝6敗防御率1.71でシーズンを終え、最優秀防御率のタイトルを獲得するなど一気に飛躍した。
しかし、その後は成績が思わしくなく1974年まで広島在籍も1勝もできずに引退。2ケタ勝利を挙げタイトルまで獲得した1971年以外では1勝たりとも挙げることができなかった。
現在消息不明。ちなみに藤本が西鉄をクビになった1969年は黒い霧事件の真っただ中だった。
スタルヒン
元巨人、トンボなどの投手。
ロシア出身。一族がロシア革命以後迫害されており、9歳のときに家族と日本に亡命。旧制旭川中を3年時に中退、発足メンバーとして巨人に入団する。
戦前の巨人を沢村栄治らと共に支えるが国内の対ソ連感情が悪化するなか「須田博」に改名を余儀無くされたり軟禁されたりするうちに終戦を迎え、戦後は巨人を離れパシフィック、金星、高橋(トンボ)で1955年まで投げ続け、303勝を挙げた。
引退後の1957年1月、運転中に電車と激突し死去。享年40。
当時スタルヒンは旭川中の同窓会に友人と向かっていたが車を会場とは逆方向に走らせていた上に友人を途中で降ろし電車で行くように指示するなど謎の行動をとっていたようでその死には謎が残る。
ワイ旭川出身、初めて知った模様
>>13
>国内の対ソ連感情が悪化するなか「須田博」に改名を余儀無くされたり軟禁されたり
こんな事実はないんやが
なんか色々と曲解してないか?
オリックス・三輪田勝利編成部長の自殺
イチローなどを発掘した阪急・オリックスの名スカウトで、当時オリックス編成部長だった三輪田勝利が自殺した事件。
1997年のドラフトでダイエーとの競合で沖縄水産高校の新垣渚(現東京ヤクルト)の交渉権を獲得したオリックスだが、当の新垣は「ダイエー以外なら九州共立大」と発言、入団拒否を表明。交渉にあたった三輪田は新垣との面会を断られたことを球団に報告するが上層部に激しく叱責される。心身共に追い込まれた三輪田は11月23日に那覇市内で投身自殺。享年53。
ちなみに三輪田自身も早大4年時に近鉄の1位指名を断って社会人野球に進んでいる。
なお、この事件以降オリックスは外れ1位の抽選を含めて一度も競合ドラ1のクジを当てていない(現在11連敗)。
湯口事件
1970年に岐阜短大付属高校からドラフト1位で巨人入りした湯口敏彦の急死とそれに伴う巨人、球界へのバッシングのこと。
ファームで1年目5勝6敗、2年目2勝3敗という結果を残していた湯口。だが、2年目シーズン終了後辺りから湯口はうつ病の発作が見られるようになる。
さらに1972年11月23日に行われたファン感の紅白戦で、体調が良くない中で登板した湯口は大炎上、川上哲治監督らから激しく叱責され、おまけにこの日の夜寮に戻らなかった湯口は二軍監督の中尾碵志から殴られ、うつ病をさらに悪化させる。
11月27日の納会では誰が話し掛けても無言で、視点も定まらず、翌11月28日うつ病と診断された湯口は更に翌日都内の病院に緊急入院した。
翌年早くに湯口のうつ病は良くなりはじめた湯口は、2月15日に復帰、2月19日から宮崎での春季キャンプに合流した。しかし、初日から話し掛けても反応しない、真夜中に奇声を発するなど異常な様子だったため同室の淡口憲司はマネージャーの藤本健作に報告。首脳陣は合流翌日の20日に湯口を強制送還、藤本と帰京した。羽田空港のロビーで奇声を発し、暴れたりした湯口は空港警備隊に取り押さえられて緊急入院。
3月22日夕刻、湯口は病院のベッドで変死体となって発見された。享年20。
監督の川上が湯口の死に際して声明を発表したが、そのとき「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と言ったことから、巨人はマスコミから激しいバッシング報道を受けた。
球団は「死因は心臓麻痺」と発表したが、マスコミから「湯口の死は自殺で、その原因は球団ではないか」と非難されることに。イメージが地に堕ちた巨人は1973年のドラフトで1位、2位、3位の選手に入団拒否されることとなる。
ヒェ……
小瀬浩之
元オリックス外野手。尽誠学園~近大を経て2007年大社ドラフト3巡目でバファローズの指名を受け入団。ルーキーイヤーから58試合に出場し期待される。翌年も出場数を増やし規定不足ながら打率3割を打ち、そのオフに結婚式を挙げる。
3年目の春季キャンプ中の2010年2月5日にホテルから転落死。享年24。
当時のオリ監督岡田彰布は「訳が分からへん!昨日まで、元気にグラウンドでやってたんやから…。そんなの、考えられへん!」とコメントしたが死の前日、練習中のトレーニング室では元気がなく、帰りのバスでは頭からタオルを被って座席に身を沈めている姿が目撃されていた。
京セラで見かけた小瀬ユニのおばちゃん、元気にしてるやろか
阪神の背番号40
土橋修
元阪神投手。右投右打。
粉河高校から日本新薬を経て1965年阪神入団。
1966年12月19日、故郷の和歌山に戻っていた土橋は自動車学校からの帰宅中、和歌山市内の六十谷橋で車にはねられ両足骨折、頭部打撲の重傷を負い、2日後に死去。享年22。一軍出場は無かった。
なお同年には中日の加藤投手も交通事故死している。
土橋が生前付けていた背番号40は1年欠番となった。阪神の背番号40を付けた選手のうち土橋の前に付けた並木輝男は49歳の若さで急死、ラインバックは引退後事故死、塩谷和彦は詐欺事件を起こし実刑を食らうなど不吉な番号と言われている(現在は鶴岡一成が着用)。
おいおい鶴岡・・
メジャーは歴史長いだけあって怖い話とか悲しい話多い
何人か現役で殺されてるし
マーティ・バーゲン
19世紀のメジャーリーガー。ボストン・ビーンイーターズ(現ブレーブス)の捕手だった。
スローイングの正確さなどで評価された名捕手だったが新聞に「無口で不機嫌な男」と書かれるような選手で、長男を亡くしたのち精神疾患(統合失調症とも)にかかり奇行が目立つようになる。
1900年1月19日の早朝、バーゲンは寝室にいた妻を斧で何度も殴り殺害。続いて3歳の次男を斧の刃で叩き殺し、最後に6歳の長女も同様に斧で殺した。家族を皆殺しにしたバーゲンはカミソリで自身の喉を切り自殺。享年28。
エド・デラハンティ
19世紀から20世紀初頭にかけてメジャーで活躍した外野手。1945年野球殿堂入り。
長い間フィリーズで活躍し、3度打率4割をマーク。本塁打や打点トップも複数回マークし”Big Ed”(ビッグ・エド)の愛称で親しまれる。1902年、セネターズ(現ツインズ)に移籍したデラハンティは打率.376で首位打者に輝いた。
翌1903年の6月25日、デラハンティはゲームの後妻に会うためチームから一時離れる。
7月2日、列車の車中で泥酔したデラハンティはナイアガラ・フォールズ駅で強制的に降ろされ、その後ナイアガラの滝に転落し死去。享年35。
発見された遺体から所持金がなくなっているなどその死には不審な点がある。
試合中の事故で死んだ選手
レイ・チャップマン
1910年代に活躍したインディアンズの遊撃手。
1920年8月16日、ポロ・グラウンズでのヤンキース戦の5回、先頭打者としてバッターボックスに入ったチャップマンは相手投手カール・メイズが投じた1ボール1ストライクからの3球目が頭部に当たり倒れた。「カールには気にするなと伝えてくれ」と言い残し、病院に搬送されたが頭蓋骨が9cmも陥没しており事故の12時間後に死去。享年29。
元々評判の良くなかったメイズは事故後インディアンズを含む他球団の選手らから激しい非難を受け、そのうちチャップマンに好意を抱いていたタイ・カッブはメイズに「可能であるなら、私はチャップマンの墓石にこう刻んでいただろう。ここに傲慢、悪質、貪欲の犠牲者が眠る」と書いたノートを渡した。ちなみにメイズは晩年に「俺は悪くない」と言った発言をしている。
現在に至るまでアメリカにアンダースロー投手が少ないのはメイズがアンダースローだったからとも言われている。
ランナーコーチがヘルメットかぶってるのはこの事故以来のこと
怖くないけど
岸一郎
大阪タイガース元監督。1955年の一時期指揮を執った。
戦前に早大や満鉄でエースを務め、戦後は兵庫県立大の前身校で1年だけ監督を務める。
1955年、阪神監督に就任。球団との関係が無い岸を起用した理由には「運輸省を訪れたオーナーが雑談で監督を探していると言ったところ紹介されたのが岸」「毎試合投書を送っていたところ目をつけられた」などの説がある。
監督に就任後は先発ローテーション制を導入するなどチームの改革に乗り出し、若手を積極的に起用。ところが藤村富美男らベテランの反発に遭いシーズン中に退任。残りのシーズンは藤村が指揮を執った。以降の人生は知られておらず、没年も不明。1894年生まれなので間違いなくこの世にはいない。
ちなみに岸が積極的に起用した若手は小山正明や田宮謙次郎、三宅秀史らを筆頭に後に大活躍した選手が多く、チーム成績も16勝17敗と悪くはなかったため阪神史上最も謎が多い監督ではあるが少なくとも無能ではなかったと思われる。
華々しいプロ生活を送った選手が数万円の為だけに人殺してムショ送りになるなんて…
小川博か
たしか今は名目上26はファンの番号で永久欠番だがほんとの理由は封印するためなんやろ?
■巨人の背番号4番が永久欠番の理由
黒沢俊夫という選手がつけていた背番号。
彼が病気で亡くなったその日に、グラウンドで黒沢選手を見た選手が何人も居た。
死してなおグランドに立ち続けていたのか・・・
村田元一
金田天皇が君臨していた時代の国鉄の2番手投手
9回2死まで完璧に抑えていたにもかかわらず最終打者の微妙な当たりをヒットと判定され、惜しくも完全試合を逃した
王貞治に通算1号本塁打及び2号を打たれた投手としても知られている
通算118勝を挙げるも、引退時に野球用具やトロフィーなどを全て廃棄、球団に名簿から名前を抹消するように訴えた
その後もメディアの取材を全て拒否、日本プロ野球界とは現在も絶縁状態が続いている
なんとなく記憶には残ってるけど怖くはなかったわ
■沢村栄治の最後
徴兵によって1938年から1940年途中までを棒に振っただけでなく、手榴弾を投げさせられたことから生命線である右肩を痛めた。また、戦闘中は左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染した。復帰後はマラリアによって何度か球場で倒れたり、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなったが、すぐに転向したサイドスローによって抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成した。
その最期は誰も詳しく分からない。船名すらはっきりしない輸送船に乗り、12月の東シナ海で米軍潜水艦の魚雷を受けて撃沈、多くの兵士とともに戦没した元巨人のエース、沢村栄治投手は野球選手としてではなく、陸軍伍長として27歳の短い生涯を閉じた。
殺されたメジャーリーガー
なおやってることはカッスレと大して変わらん模様
レン・コーネッキー
元ドジャースなどの外野手。1934年にドジャースで打率3割を記録するが翌1935年は成績を落とし、更に酒グセが悪かったようで手に負えなくなった球団は9月15日、カブス戦後にブルックリンへ強制送還することを決定。
セントルイスからデトロイトへ向かう航空機内でウイスキーを暴飲したコーネッキーはスチュワーデスを殴るなど暴れに暴れまくり、最終的には椅子に縛り付けられる。飛行機はなんとか無事にデトロイトへ到着したがコーネッキーはここで意識を失うが、その後復活したコーネッキーはバッファロー行きの飛行機に乗った。
案の定バッファロー行きの機内でも乗務員とトラブルを起こし暴れ出したコーネッキーだが、このとき副操縦士相手に暴れ回ったため飛行機は危うく制御を失いかけた。墜落を避けるために操縦士がコーネッキーを数発殴り、小型の消火器を頭にぶつけた結果、コーネッキーは脳内出血で死亡。享年31。飛行機はトロントの競馬場に緊急着陸し無事だった。
なお操縦士は過失致死罪で起訴されるも無罪となった。
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伊良部の嫁は千ョン
長い´д` ;