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あの世の契約書

この記事の所要時間: 247

俺の親父は、タクシーの運転手をしています。

夜中の2時を過ぎたくらいだったそうです。

一人の男性(40代くらい)が、病院から乗ってきました。

行き先は違う近所の病院でした。

身なりはきちんとした黒の背広姿で、おかしな様子もありませんでした。

車中、男性はカバンからA4サイズの書類を取り出し、一枚一枚を丁寧に見ていました。

目的の病院につくと、男性は

「運転手さん。悪いが、少しの時間だけ待っていてもらいたい」

「すぐ片付く用事なので。それに、この後違う病院にも行かないといけないから」

と言いました。

親父は

「いいですよ。」

と承諾しましたが、かわりに、無賃乗車を防ぐため荷物を置いていってもらうことをすすめたそうです。

そして、男性もそのとおりにカバンにあった封筒だけを取り出し、あとの荷物はすべて置いて車を降りていきました。

 

男性が降りたあと、親父は(すごくいけないことなのですが)男性の見ていた書類が気になって好奇心で見てしまったのです。

書類は何かの契約書みたいなものだったのですが、気になったのが名前の横に判子ではなく拇印が押してあったことでした。

でも、車中が暗いのと男性がほんとうにすぐに帰ってきたので細かい部分までは見ることはできなかったそうです。

 

男性が急いで病院から出てくるのが見えたのでタクシーのドアを開けました。

そのとき、男性の後ろを女性が追ってくるのが見えたのです。

親父は、その女性にただならぬ雰囲気を感じました。

男性は、

「女性は無視して、すぐに車を出してください」

と意外に冷静は口調で言いました。

親父は、言われたとおりというより反射的にすぐに車を出し、バックミラーも何か怖くて確認できなかったそうです。

その後、男性は小さな声で

「すいません」

と一言いったきり、ずっと無言のままで、また違う病院の前で降ろし、そそくさと病院の中に入っていったそうです。

 

男性を降ろした後、すぐに会社から無線が入りました、

「至急、家に連絡をほしいと家族から電話があった。」

という伝言でした。

家に連絡するまでもなく、親父は妻(俺の母親)が死んだことをその瞬間悟ったそうです。

というのは、俺の母親は持病の心臓病をわずらい、もう長く持たないと医者に宣告されていました。

 

親父は、この話を10年近く経ってようやく話してくれました。

小さかった俺にショックを与えないように配慮してくれたんだと俺は思っています。

当時は、自分の愛する人の死のショックでその男性について深く考えることができなかったそうですが、あの男性は何者なのか?あの書類の中に母親の名前はなかったのだろうか?

追いかけてきた女性は?

あの

「すいません」

の意味は?

親父は今になって考えてしまうそうです。

 

俺も俺で、母親の葬式の記憶の中にある、母親の亡骸の親指がかすかに赤かったことを親父には言えないままでいます。

10年後くらいに話そうと思っています。

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